2021年2月10日水曜日

エミリー・ディキンスン論が掲載されました

 『英文学研究 支部統合号(『関東英文学研究)』(vol. 13, 2021, pp. 79-87 [pp.29-37])に“Nature’s Dining Room”: Emily Dickinson’s Multispecies Imaginationが掲載されました。

2015年に科研費「動物殺しの比較民族誌研究」(研究代表者:奥野克巳先生)の研究会で刺激を受け、その後、「マルチ・スピーシーズ」の概念をアメリカ詩の読解に活かすことはできないかと考えてきました。内容はニュー・マテリアリズムやラトゥールのアクター・ネットワーク理論の見地を下敷きにしていますが、私の議論そのものは、あまり斬新なものではないという自覚はあって、19世紀半ばにおけるキリスト教的自然観と存在論的自然観の相克を、詩作品の中の鳥(とりわけrobin)の表象に読みとるという内容になっています。理論・方法論については次回以降の論文で彫琢させていきたいと思っています。

ディキンスンへの思いは、大学院時代に渡辺信二先生の授業で育まれていて、いつか論文を書きたいとおもっていましたが、なかなか時間がつくれずにいました。そこへ一昨年、日本ソロー学会からの依頼で江田孝臣『エミリ・ディキンスンを理詰めで読む−−新たな詩人像をもとめて』の書評を担当させていただく機会に恵まれ、詩集の再読を進めていました。

さらに、2020年4月にコロナ禍のアメリカで、予定していた共同研究や学会参加、フィールドワークをすべてキャンセルしぜるをえなくなり、ステイ・ホームを余儀なくされました。そのくやしさをバネに集中的に関連論文を読んで完成させたのが、この論文です。査読の過程では、編集委員の先生方にかなり有益かつ励ましのコメントをいただき、今後にもつながる気づきを賜りました。そうした意味でも、私にとっては思い入れの深い論文です。

J-Stageを通じたオープン・アクセスまでは時間を要するので、日本英文学会会員以外でご興味をもってくださった方には、抜刷のコピーを添付メールいたします。ウェブサイト下部のコンタクト・フォームからご連絡ください。

2020年11月23日月曜日

ブルデュー読書会『世界の悲惨』1

第1冊第Ⅲ部 国家の不作為公判

 国家の視点 パトリック・シャンパーニュ

    ■移民流入の「費用」と「便益」 (アブデルマレク・サヤド)

 秩序を維持する法執行者の無秩序 レミ・ルノワール

  貧乏人の警察 レミ・ルノワール

   警 視 〈聞き手〉レミ・ルノワール

  女性であり、警察官であること レミ・ルノワール

   若い女性刑事 〈聞き手〉レミ・ルノワール

  生身の糾弾 レミ・ルノワール

   司法官 〈聞き手〉レミ・ルノワール

・・・

『世界の悲惨I』はこれまで貧困にあえぐ階層に焦点を当ててきたが、第Ⅲ部では、知識人階層・官僚機構に属する人びとへの聴きとりを行っている。とりわけ後半では権力側に属する(とされている)警察や司法にかかわる者の声に耳を傾け、その声に宿る「憤り」や「苛立ち」「皮肉」の由来を問うている。


彼らは公的サービスを提供する者たちであり、教養を備えた知識人としての自意識がある。それゆえ、客観的に自己分析し、自らの発言がバランスのとれた見方であるように冷静に語る。しかし、語り手は自分をそのように演出しているに過ぎない。その平静を装おうとするふるまいこそが分析対象となる。そこに語り手の癖が表出するからだ。聞きては、語り手からその「癖」を引き出し、分節化する。そのためには、精神分析的な手法のみでは十分ではないことは明らかだ。フランス特有の警察機構の特徴を踏まえる必要がある。


警察機構はアメリカにおけるBLMの文脈で、にわかに議論が活発化しているが、各国、そのシステムに大きな違いがある。『秘密の森』は韓国特有の警察と検察の対立図式を浮きぼりにしているし、映画『シャーロック』、ウェールズを舞台としたドラマ『ヒンターランド』などを観れば、イギリスの地方警察がアメリカなどと異なって、いかに「丸腰」かが描きだされているという。


『世界の悲惨』第III部が聴きとるのは、いずれも教養と正義感をもつ警察官・司法官である。フランスにおける1980年代後半という時代性が反映されている。地方出身であること、女性であること、これまで司法を担う階級ではない出自であったりすることなどが、彼らのような公的な仕事に就く人びとの間に精神的な軋轢を生み出している。その原因はまず、「理想」と「現実」の乖離であり、幻想と実態のギャップに精神的な「悲惨」が読みこまれている。


聞き手の社会学者たちは、彼らが表現する憤りを「理想」が高すぎるゆえの苦しみであると述べる。そうした「幻想」は出自によるハビトゥスによるものだということだろう。だが、すべてを文化資本の差に回収してしまような、その分析の手つきはいささか冷淡すぎるのではないか。じっさい、後日、語り手がこの文章を読んだときのショックはどう説明されていたのだろうか?という疑問が出された。


そうした冷淡さの背後に、本書全体のテーマ「国家が国家としての役割を果たせなくなっている」(北條)現実を映し出す企図を読みとるならば、多少は、そのショックは和らぐのかもしれない。あるいは、この一人ひとりは、あなたでありわたしだ、と認識するならば。人はどんなに取り繕っても、ある歪んだ「癖」のある色眼鏡で、自分を正当化しようとするものだ。とはいえ、自己正当化を正当化するような、こうした考えをもってしても、聞き手の分析はなかなかに毒のあるものだ。どう達観すれば、こうした分析を受け入れられるだろうか。


上記の疑問を考えるには、ブルデュー 派が90年代の社会調査の方法論に関しても業績を残したという側面に目を向ける必要がある。きわめて大雑把にいって、それまでのアンケート調査のような量的なものに加えて、質的・個別的な対話を記録するという方法の導入がなされ、その後、2000年代に入ると本格的な談話分析が開始される。沈黙やためらい、言い淀み、声の調子などを分析対象に含める方法論が盛んになる(談話分析については、クールタード『談話分析を学ぶ人のために』『認知物語論のキーワード』、『世界の手触り フィールド哲学入門』、さらにはポッドキャスト四谷会談〉「フィールドワークとは何か」の回参照)。


さらには、語ってくれる人を単なる〈インフォーマント〉と捉えるのではなく、信頼にもとづく長期的な人間関係を構築し、〈共同研究者〉と捉える考え方が提示された。2020年度上智大学史学会(2020/11/13)において藤原辰史は吉岡金市(1902-1986)の農学思想について講演し、吉岡という人物のアカデミズムに対する反骨精神と地域の農民たちとの農業実践を強調した。質疑応答では「吉岡はそうした人びとを情報提供者としてではなく、共同研究者として見ていたのでは」(北條)というコメントが寄せられた。


つまり、「聞きとり」は地域社会への長期的な責任が伴うという観点から据え直されなければならない。この観点からは、岸政彦『マンゴーと手榴弾』が好例である。私には、岸の方法論が、対象者との心的距離の近さが、おもねりにも繋がりかねない危うさをもつようにも思われた(文章がカッコ良すぎるので)。が、その危うさを承知のうえで、緊張をもって言葉がつむがれている限りにおいては、方法論としての対象者との共同作業という見方は、開かれた可能性をもっているのかもしれない。


以上をわたしの文脈に据えて考えると、批評家は存命の作家(の作品)とどう向き合うかという問題につながってくる。これは、表層的なレベルでは、書評を批判的に書くことの難しさにも似ている。あるいは、中上健次や村上龍が柄谷行人と対談をするというような日本の文藝批評の伝統をどう捉えるかという問題でもある。作家との距離を縮める批評家をしばしば目にするが、わたしは基本的にそうした立場には批判的である。そこには批評性が瓦解する危険性が常に伴っていると考えるからだ。批判的と書いたが、むろんそれは自分自身への戒めにすぎない。批評性を保ちつつ書ける批評家はそれでよい。だが、わたしはいったん出会ってしまうと、おそらくその魅力を前にしてファンになってしまう。だから、自分に戒めているという程度の意味だ。


だが、作家も批評家も「共同研究者」であるという視点は大切である。平たく言えば、書き手はそこで対象とする作品を書いた当本人に対して、もれなく責任が伴う。堀さんが指摘されたように、作家に読まれることを想定して、批評家はものを書かなければならないということだ。だから、もし存命の作家について何か書くとすれば、「なんか嫌だな」と思われたとしても、「こいつを次の作品でぎゃふんと言わせてやろう」という文章を心して書かねばならない。さいごに、ヤン・プランパー『感情史の始まり』が北條さんから紹介された。これはアラン・コルバンやA・ヴァンサン=ビュフォー『涙の歴史』の感性の歴史学の系譜に位置づけられるとともに、より理論的で文学的な分析から距離をとったーアナールよりも人類学よりの方法論によるー著作であるらしい。そして、言及した論者による「感情」そのものを扱うというよりも、歴史的事象の背後には「感情」が無視できないという立場であるらしい。少し高価で手を出しづらいが、じっくりと読みこみたい著作である。


文学研究においても、ポスト理論における次なる展望を見究めようとしている現在、情動理論〈affect theory〉の応用が彫琢されてきている。ブルデュー的方法とライフヒストリーないしはフィールドワーク的方法、いずれにしても、観察をする側とされる側が互いに影響を及ぼしあう「感情」がともなう。 これは書く側と書かれる側の緊張関係、読者とテクストの関係にも敷衍できるであろう。

2020年7月3日金曜日

書評・発表コメントについて

いま、書評のためにメモをとりながらとある本を読み進めている。

書評というのは、新聞や商業誌でない限り、思いきって批判的に書くこともできる。とはいえ、よっぽどの大御所であったり、まったく人の反応に無関心な人であったりしない限り、やはり継続的な人間関係にどのような影響を及ぼすのかを考えてしまう。書評は査読とは異なる。だが、厳密な査読システムがないまま書籍という形で論文が量産される現状においては、学術誌に寄せられる書評がある意味での査読の役割を一定程度果たしている、とどこかで聞いたことがある。しかし、もう出版された印刷物に対して、査読コメントのような修正を要求するようなものは書けまい。基本的には、その本がどのような学術的な文脈に位置づけられ、どの程度その意義があるのかを自分なりの視点で捉えなおすというのが、無難な落とし所ということになるだろう。

しかし、書評には読者がいる。ほめるだけの書評を読者は好まない。参考になる書評は往々にして批判的なコメントを含むものである。ならば、優れた書評というのは、ふたつの方向性をもつメッセージを含むものということになるだろう。その本の書き手に対しては鼓舞するような生産的なコメントとして、読み手には本音をそっと伝えるというような形で、例えていえば、ふたつの糸電話に対して交互に伝えるような文体が求められる。それでいて、評者がふたつの紙コップをもっている姿は多くの観客によって見られている可能性がある。

まあ要するに、書きづらいコメントをどのように書くべきか、と悩んでいるのである。そう考えているときに、ふと思い出したのが、もう十数年前、大学院生のときに研究発表をしたときのことだ。懇親会で、ある先生からコメントをいただく機会があった。その先生のことはその日まで寡聞にして存じ上げていなかった。見ず知らずの年配の方からの言葉である。

その先生はニコニコしながら、近づいてきて、とても丁寧な口調で私に言った。

「発表おもしろかったですよ。あなたはたくさんアイデアをもっているようだから、一度に二本とか三本とか、複数の論文を平行して書いてみるといいかもしれませんね。」

その先生からのコメントは、ほめられているような、そうでないような、真意のつかめないものだった。しかし、今になってわかる。あの先生がおっしゃりたかったのは、こういうことだ。

「君はひとつの論文に、無関係のアイデアや脈絡のない先行研究を詰め込みすぎだよ。30分程度の発表に、二つも三つも論点があるようでは、聞いている方も疲れてしまう。あと、君は、発表の目的がふたつある、と言ったね。ひとつにしなさい。欲張りはよくない。ふたつめの目的は、ひとつめの目的に資するようなら使いなさい。あと、傍証のための傍証が多すぎるよ。横滑りもはなはだしい。論述のレイヤーというものをもっと工夫するといいよ。あと、とにかく論述の見通しを良くすることだね。ひとは、君のアイデアは良い、とか、多くの情報が含まれている、とかなんとか、言うもしれない。しかし、それはほめ言葉ではないのだよ。要するに、アイデアがうまく整理されていない、論文の構成を見直したほうがよい、そう理解すべきなんだよ」

たしかに、私の発表は、それまで「勉強」したことをすべて発揮しようとして、たくさんのアイデアを詰め込んだものだった。それでいて、自分でも何を言いたかったのか、ぼんやりしたまま、しゃべったのだった。準備もまともにせず、徹夜続きで書き上げたもので、寝かせて論点を整理することも、まともに推敲することも怠っていた。いまから考えると、空恐ろしい。

「あなたはたくさんアイデアをもっているようだから、一度に二本とか三本とか、複数の論文を書いてみるといいかもしれませんね」

このコメントをもらったのはもう何年も前のことだ。にもかかわらず、そのコメントが、今、その外皮をひらひらと落として、その真意が目の前に突きつけられているような気がする。いま、文章にしてみると、なんのこともない、どちらかというとストレートな苦言であったのかもしれない。しかし、あの時はその真のメッセージには気づけなかった。あの先生のニコニコとした笑顔、やわらかな口調の裏にあったのは、そういうアドバイスだったのか。書評をどう書くべきかという段になって、過去の自分には理解できなかったコメントの真意がよみがえってきたのである。

なぜ、もう少し早く気づかなかったのか。これまでたくさんのコメントを先生方からいただいてきて、その婉曲的な言い方をなぜ真摯に読みとかなかったのか。ひとつには自信がなかったからだろう。自分の実力に向き合うだけの度量がなかった。さらには、特定の人からの助言のみを神格化していたというのもあるかもしれない。これは大学院生にはよくある傾向だと思うが、指導教授やその道の第一人者の意見のみを常に至上のものと理解してしまう。これは当たり前のことであるし、すべての声を聞いていたら、ノイズだらけで論が歪んでしまうことにもなりかねない。だけれども、先入観なく聞いてくれたり読んでくれたりしてくれた方の意見は、尊敬する先生のそれと同じように、いやそれ以上に、貴重なものだ。

大学院生ではなくなると、ますます、ストレートにコメントをしてくれる人が少なくなってくる。これは本当におそろしいことだ。コメントをもらえる場に積極的に出て、いただいた言葉を大切にして、そのメタメッセージを読みとく。おそらく、外皮を削いだそのメッセージは厳しいものであろう。一瞬、ムカつくかもしれないし、一晩は寝込むかもしれない。だけれども、数年かけてその価値に気づくことができれば、大きな成長につながる。そう信じて、もう少しがんばってみることにしよう。そして、あの飄々としてコメントをしてくれた、あのときの先生のようなふるまいが、自分にもできるだろうかと考える。10年早いとはわかってはいるものの、あの10年前の研究発表から今日までは、あっという間に過ぎていったのだから、これからの10年もきっと矢の如くに過ぎていくことだろう。あんなふうに、飄々と若者に近づいていって、タイムカプセルのような助言が仕掛けられるおっさんにどうやったらなれるのだろうか。

2020年6月2日火曜日

暴動について

命からがら、オレゴン州ユージンからサンフランシスコまでやってきた。なぜ「生命からがら」だったのかは、少し時間をおいてから書きたい。とにかく時間が必要だ。いま言えるのは、自分が感じている孤立感、疎外感はきっと理解されないだろうという絶望というのがあるということ、それを救ってくれたのは、マンションの掃除とゴミ捨ての仕事をしてた男だということだけだ。ダンという男の名は一生忘れないだろう。そして、彼の「君がこれ以上お金を払うのは、見ていられない」と言ったときの声を。この経験を語るには、時間が必要だ。そして物語が必要だ。

サンフランシスコに着くと、各地で暴動が起きた。ミネソタで起きたポリスによる黒人のジョージ・フロイド圧殺事件の余波だ。CNNはミネソタをはじめ、ニューヨークからサンタモニカまで拡がるプロテストを報道している。

フライトまで3日ほどの余裕があったので、最後にゴールデンゲートプリッジでも拝んでおこうかと思ったが夜間のcurfew(外出禁止令)が出ていたのであきらめた。空港近くのウェスティンはふだんなら手の届かないような金額だろうが、今は1泊1万円。なかなか快適である。空港近くのダウンタウン、ミルビレーまでUberで行って、US Bankで車売却のお金の換金、ウェストユニオンでネブラスカでの敷金返金分のチェックの換金をする必要があった。また、Wi-Fi解約に伴うルーターの返却のため、UPSへ立ち寄る必要があった。なにしろ、各施設の開店時間がまちまちで、ウェブサイトで確認していっても閉店していることがよくある。今回も、わざわざUberで向かったのに、閉まっていた、という無駄足が数度あった。しかし、ドストエフスキーがかつて言ったように、人間はあらゆる環境に慣れてしまうものだ。でた、でた、またか。出直そう、くらいで済んでしまう。

人間、どんな苦境であっても腹は減る。ここ数日、生き死にの問題がお金の問題となり、ようやく、昼メシの問題にまで軽くなってきた。昼に何食べるかね?とスマホを検索する幸せを感じた。

ミルビレーのダウンタウンの少し外れたところに、「馬車道」という日本食レストランを見つけた。もう日本に帰るんだから、アメリカンでも良かったような気もするが、やはり心が不安なのだろう、アメリカでの日本食を優越感をもちながら、「なかなかやるじゃん」といいながら、食べたかったのだ。

店先でテイクアウト待ちをしていると、同じく注文を待っていたアジア系の男性と話す機会があった。お互いソーシャルディスタンシングをしていたのだが、彼はこちらを気にかける素振りを何度かしてくれて、彼の注文はとったのかい?みたいなことを店員さんに言ってくれてたようで、明らかにナイスな人だったので、声をかけてみた。

「各地で暴動、なんだかすごいことになってるね」

「まあ、こんなのしょっちゅうだけどね」ヴェトナム系2世だという彼は言った。50歳くらいの男でキャップとマスクを身につけている、「もちろん、人種差別には反対だけも、暴れちゃダメだ、暴力はいけない、そこにあったはずの大義は失われてしまう」

しばらく、意見交換をした。彼のより僕の注文が先に出てきた。その紙袋をグラブすると、彼に名前をきいた。マイケルと言った。

もちろん、ぼくはマイケルの意見に賛成だ。だけど、だれにも理解されないだろうという絶望感に押し潰されそうになったばかりのぼくは、少し複雑な気持ちだった。各地で暴動が起きる、そのエネルギーを羨ましくも思った。テレビに映る人々は白人と黒人であり、アジア系はほとんどいなかった。ぼくに家族と所属がなければ、その暴動に飛びこんでいきたい、そのくらいの気持ちはあった。

しかし、警官も仕事として鎮圧をしている。彼らにも家族がある。オレゴンでの命の恩人、ダンは白人だった。プロテスターたちがもつプラカードに「沈黙する白人は暴力的だ」という内容があった。でも、沈黙する自由もあるはずだ。プロテストか人種差別主義者か、という二項対立をアメリカはいまだに生きている。ぼくは沈黙しながら、人種差別に抗議する方法を考えていた。


2020年3月19日木曜日

芦別の夜

これからお話するのは、2年前の夏の終わりのできごとです。

札幌での研究会の後、妻と小旅行に出かける計画を立てていました。星が好きな彼女への慰労も兼ねて、星空がよく見えるようにと人里離れたホテルを予約していました。ぶじ研究会は終わり、翌朝、芦別へ向かうその夜に、大地震が起きました。朝方3時、目を覚ますと「あ、これはやばいな」と思いました。ビジネスホテルの7階は2011年のときの東京と同じくらい揺れました。寝ぼけながら妻が毛布を頭から覆ってくれました。

***
しばらくすると、ホテルの部屋のすべての電気が消えて、非常用の小さな電灯がついた。窓を見ると札幌市内の信号機が消えている。陽が出るのを待って、スーツケースを真っ暗な非常階段で降ろした。余震が続いている。レンタカーを借りることができるのか、芦別までたどり着けるのか、すべてがわからない。ホテルのフロントにもう一泊できるかと尋ねた。コンピュータが動かないから新たな予約は受けられないという。新千歳空港のフライトがすべてキャンセルになった、と伝える紙がフロントデスクに貼られている。

情報を求めて札幌駅へ歩いた。多くの人々が駅の改札口付近で諦めたような顔をしている。コンビニに入ってみた。あらゆる食べものが消えていた。唯一の救いは夏の終わりの札幌が暑くも寒くもなかったことだった。

レンタカー会社に行ってみた。店員はまだ出勤しておらず、軒先のベンチに座っていると、男性が鍵をちゃりんちゃりんさせて小走りで近づいてきた。
「今日は本当は車だせないんすけど、予約しているんだったら、お出ししますよ、あくまで自己責任ということで。信号もストップしてますし、停電がいつ回復するかわからない。道もぼこぼこ。高速は封鎖されてます。それでも行きますか?ガソリンスタンド、大行列ですよ。3時間並んでダメだったって言ってましたから。どこですか目的地、あ、芦別。途中の道、大丈夫かなあ」息を切らせながら、彼はスマホであれこれ調べてくれた。

もう昼過ぎになっていた。札幌市内の混乱は続いていた。コンビニには列ができていて、ドコモショップには充電を求める人々が押しかけている。信号の消えた交差点に警官が出て、棒を振っている。私たちの車はのろのろしながら市街地から抜け出し、国道に出た。ガソリンスタンドごとに車の長蛇の列ができている。

芦別へ向かって2時間ほど走った頃から、信号機が回復し、電気が灯るコンビニも出てきた。ガソリンスタンドも空いてきて、3台くらいしか並んでいない。札幌市内で3時間並ぶんだったら、こっちまで来てガソリンを入れたほうがいいのに、と思っていたら、まったく同じことをラジオのパーソナリティが言った。リスナーからの投書を読み上げるコーナーだった。

夕方近くになっていた。考えてみたら、朝からなにも食べていない。灯りのついたコンビニを見つけて入ってみると、おにぎりやお惣菜の棚は空っぽになっていポットが用意されていた。カップ焼きそばをふたつ買い、お湯を入れて外に出た。太陽が沈み始めている。地平線の向こうに朱色がにじんでいる。後部トランクを開けて、そこに座り、ふたりとも無言で焼きそばを食べた。昨晩食べたうにいくら丼よりもうまかった。

芦別のホテルに着いたとき、まだ7時前だったが、もう暗闇だった。フロントに行くと、ダイナモで灯りをつけている。この地は停電したままのようだ。真っ白なあごヒゲを生やしたおじいさんがにこにこしながら近づいてくる。
「こんなたいへんなときによく来てくださいました。見てのとおり、電気も水もダメなんですが、どうかゆっくりしてってください。そうそう、普段は夕食はやってないんですが、カレーライスをこしらえたんで、よかったら是非」
おいくらですか?と尋ねると、「あ、え、そうですね、じゃあ500円」とおじいさんは言った。薄暗いロビーで大盛りのカレーを食べた。焼きそばをさっき食べたばかりだったのを忘れていた。

真っ暗な部屋に入ると、水もでない、電気もつかない、Wi-Fiもなかった。寝るしかないが、寝れなかった。昨夜の揺れを思いだす。2011年のことも頭をよぎった。そこへ館内放送が流れてきた。

「みなさん、こんやはきれいです。星をみるには最高の夜です。よろしかったら夜8時にフロントにおあつまりください」

薄暗いままのフロントに行くと、疲れたような顔をしたカップルや家族が十人ほど集まっていた。受付のおじいさんがにこにこしながら望遠鏡をかついでやってきた。「さあ、いきましょう」

ホテルをでると、チェックインのときには気づかなかった星がでている。流れていく星もあった。みんな、無言でおじいさんについていく。しばらく歩くと草原にでた。おじいさんは言った。

「みなさん、いいですか。いまから私の懐中電灯を消します。みなさんも目を瞑ってください。しばらくしたら、空を見あげてください」

ぼくらは目を瞑り、空を見あげた。どこからかうたが聞こえてくる。

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の  つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。

ーーほら、あなた。ちょいとこの望遠鏡をのぞいてごらんなさい。

オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。

ーーみなさんは、そういうふうに川だと云
いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。

大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。

翌朝、チェックアウトのときにはおじいさんの姿は見当たらなかった。眼鏡をかけた受付の女性に「昨夜ごちそうになったカレーライス代です」と言って500円玉を渡すと、「はあ、そうですか」と目を丸くした。彼女は代わりに封筒をこちらへ差し出した。中を見ると5千円札が入っていた。差し戻そうとすると「今回は温泉が入れなかったので」と言った。そうして彼女はまた画用紙に目を落とした。手書きで記された部屋番号のひとつに赤鉛筆でばってんをつけた。ホテルのロビーには朝日が射し込んでいた。昨夜の望遠鏡がロビーの片隅に置かれていた。

「あれは先代のオーナー兼支配人が愛用していたものです。支配人が亡くなってもう10年です」

振り返ると、鼻眼鏡の受付の女性と目が合った。もう一度、望遠鏡に目を向けて、昨夜のうたにもう一度耳をすます。お気をつけてお帰りください。またお待ちしております。その声に振り返ると、ロビーに電灯が点いた。このホテルにも電気が戻ったのだ。

2019年9月24日火曜日

アメリカ南西部

After WLA at Estes Park, I came to Santa Fe through the research of Mesa Verde NP. Enjoy photos regarding Tom Outland Story and Death Comes for Archbishop!





The Cathedral Basilica of St. Francis of Assisi

Cliff Palace (Cliff City in The Professor’s House)

Mesa Verde  (Blue Mesa in The Professor’s House)


2019年2月22日金曜日

『繋がりの詩学ー近代アメリカの知的独立と〈知のコミュニティ〉の形成』

*本文は日本ソロー学会会員メーリングリストに寄稿した文章を転載しています。

つい先ごろ刊行された19世紀アメリカ文学をめぐる論集、倉橋洋子,  髙尾直知, 竹野富美子, 城戸光世編著『繋がりの詩学ー近代アメリカの知的独立と〈知のコミュニティ〉の形成』(彩流社, 2019年2月)を以下、簡単にご紹介します。

本書は近年めざましい成果をあげている文学研究のグローバル化の延長線上に位置づけられる。その文脈のなかで本書のオリジナルは、編者のひとり竹野富美子氏が「まえがき」で説明するとおり、<知的コミュニティ>の越境である。コミュニティの相互交渉が人の思考の枠組みにいかなる影響をあたえるのかーこの問いに各論がそれぞれの観点から応答しており、一冊の論集としても一貫したつくりとなっている。

本書には多くの本学会員が寄稿しており、読みどころが豊富にある。ここではソローへの論及のある2篇に触れておきたい。竹野論文は「マサチューセッツの博物誌」を『マサチューセッツの報告書』に対するアンビヴァレントな態度を両者の影響関係を比較検討することを通じて、ネイチャーライターとしてのソローを評価する。

他方、貞廣論文は、世紀末イギリスにおけるソロー作品の出版事情をきわめて精緻な実証的アプローチによって分析し、社会主義者によって進められたソロー受容のありかたが「社会改革者としての作家像を作り上げるのに貢献した」と指摘している(335)。

アメリカン・ルネサンスは、アメリカの知的独立宣言と呼ばれる。だが、じつは作家たちのスタイルや作家像をつくりあげたのは、越境的な<知的コミュニティ>の流動性であった。この指摘は、すでに文学研究においては不可欠なものになりつつあるが、本書の美点は、各論が歴史的な事実と文学テクストとの往還によって実像と虚像とを見きわめようとする方法論ー実証的アプローチと認識論的なアプローチの邂逅というべき方法論ーにある。トランスナショナルな研究の枠組みが総論的に成熟したいま、各論の立証の精度がいよいよ研ぎ澄まされてきた。

その到達点を本書は示している。